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彼らが踊る理由|ダンスと自由とデヴィッド・ボウイ【ネタバレ注意】

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※この記事には、映画『スウィング・キッズ』のネタバレが含まれています。


ひとつ聞きたい。あなたは自由になったらどうしたいのか?と。

「どこか遠くの国で優雅に暮らしたいわ」「何日でも家にこもっていたいよ」「自然の中で暮らすんだ——」一人ひとりの答えがあるだろう。それはどれも間違いではないし、あるいはベストアンサーかもしれない。

あなたは自由になったらどうしたいのか?その問いに対する答えは、その人自身の自由とは如何なるものかが込められている。ある人にとっては、自由とはどこか遠くの国でジャック・ラッセル・テリアでも飼いながら暮らすことで、ある人にとっては家でジム・ジャームッシュの映画ばかりをひたすら観ることこそが自由である。自由にはいろいろな形がある。なぜならそれは自由だからである。

前置きはこの程度にしておこう。それではなぜ、「自由になったら、どうしたいか?」などと私は聞いたのか。それは、あるひとつのコードのようなものに気づいてしまったからである。これは特に裏付けも何も存在しない、いわゆる“ほんの思いつき”というやつだけれど、あなたが退屈で仕方なく、退屈ってそもそも何なのかしら、と考えはじめてしまうくらいにまでなっているのなら——人は時間を持て余すと、いくらか哲学的になるものである——ぜひ読んでほしい。

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映画『ジョジョ・ラビット』をはじめて観たのはもう先々月のことになるが、初見時から気になっている部分がある。この映画は、第二次世界大戦時下のドイツを描いたものであるが、作品の終盤にさしかかった頃、主人公・ジョジョは、ヒロインであるユダヤ人の少女・エルサにこう尋ねる。「自由になったら、どうしたい?」と。私が冒頭に投げかけた質問と同じである。エルサはこう答える。「踊るわ」、と、たった一言。

戦争が終わり、晴れて彼らに自由が降り注いだ時、エルサの言葉通りに二人は踊る。デヴィッド・ボウイの名曲、「Heroes」のドイツ語版である「Helden」にのせて。


デヴィッド・ボウイの「Heroes / Helden」は、彼の「ベルリン三部作」(ほか二曲は「Low」、「Lodger」である)のうちの一曲だ。

「Heroes」で描かれているのは、ベルリンの壁の厳しい監視下のなか、逢瀬を重ねる恋人たち。ジョジョ・ラビットの世界の、もう少しあとのドイツである。ボウイが西ドイツ側のベルリンの壁近くでライブを行ったのは、1987年6月のこと。西側には8万人ほどの観客が集ったが、東側も例外ではない。5,000人以上の人々が集まり、ボウイの祈りにも似たパフォーマンスを聴いていたのだ。この時、スピーカーの4分の1は東側に向けられていたという。

その後ベルリンの壁は崩壊に至り、ボウイは“ベルリンの壁崩壊への貢献者”として知られている。つまり何が言いたいのかというと、デヴィッド・ボウイの曲、それも「Heroes」にのせて踊るということには、自由への大きな意味が込められているのだ。

ボウイ×踊りで自由を表現しているのは、『ジョジョ・ラビット』に限った話ではない。近頃上映している映画のなかで言えば、『スウィング・キッズ』もそうである。

『スウィング・キッズ』の舞台は、朝鮮戦争の最中にあった1951年の韓国。舞台となったのは巨済(コジェ)捕虜収容所だ。巨済捕虜収容所の新たな所長は、収容所のイメージアップ、ならびに自身の昇進を目論見、戦争捕虜たちによるダンスチーム結成プロジェクトを計画する。そこで集まったのは、収容所で一番の人気者でありトラブルメーカーのロ・ギス、4ヶ国語を操る通訳士のヤン・パンネ、生き別れた妻を捜すために有名になりたいカン・ビョンサム、予想を裏切るダンス・テクニックを持つ中国人捕虜のシャオパン、元々はブロードウェイのタップダンサーであった米兵・ジャクソンの4人。

さまざまな思い、さまざまな背景のある彼らの名前は「スウィング・キッズ」。初舞台をクリスマスに控え、タップダンスに情熱を燃やしていくが……というストーリーだ。

物語が後半にさしかかった頃、ダンスチーム「スウィング・キッズ」のリーダーである米兵・ジャクソンは、メンバーである通訳士・パンネのもとを訪ねる。戦いはなお続いており、「スウィング・キッズ」も踊っている場合ではないという状況だ。

ジャクソンとの会話の中で、パンネはふと「ファッキンイデオロギー」とこぼす。それを聞いたジャクソンは、同じく「ファッキンイデオロギー」と繰り返す。

その頃収容所にいた主人公・ギスは、「(共産主義として生きてきたにも関わらず)自由の国の踊りであるタップダンスを踊ることへの罪悪感や迷い」を感じていた。なぜ罪悪感が生まれてしまうのか。それは“イデオロギー”のせいに他ならない。誰も望まぬ勝手なカテゴライズのせいで、敵対心や争いが生まれ、踊ることさえも許されないのだ。「そんなことっておかしいよな」「俺はただ踊りたいんだ」という思いが、ギスを動かす。

そしてギスとパンネは踊りだす。デヴィッド・ボウイの、「Modern Love」とともに。


デヴィッド・ボウイの「Modern Love」は、神と人間に挟まれた葛藤を歌っている一曲だ。

(Church on Time)terrifies me

(Church on Time)makes me party

(Church on Time)puts my trust in God and Man

出典元:http://j-lyric.net/artist/a04ceac/l019e45.html


曲中に登場する「定刻の礼拝が僕を怖がらせ、集団の一員となり、神と人を信仰せよと押し付ける」という描写は、自由であるはずの信仰が、いつしか強要めいたものへとなっていく様子を感じさせる。「自分が何を信じたいのか」ではなく、「何を信じていれば周りと一緒なのか」にフォーカスされていくのである。

それはまさに、戦時下の「スウィング・キッズ」たちが置かれている状況と似ている。資本主義や共産主義というカテゴライズを勝手に押し付けられ、勝手に押し付けられた立場のもとで争わなければならない。そこには正しさも自由もない。

ギスとパンネは「Modern Love」とともに、駆けて、回って、飛んで、自分の踊りたいように踊っていく。イデオロギーの押し付けなどに負けない、自由への祈りにも似た踊りだ。

奇しくも、自由の表現としてここでもデヴィッド・ボウイが活かされている。そして、自由=ダンスであることも共通しているのだ。デヴィッド・ボウイとともに自由を踊る。まるで映画界のなかでのひとつのコードかのように、これらは存在していると言っていいだろう。

ダンスと自由とデヴィッド・ボウイについて話してきたが、戦争を描いた二つの作品において、とても似た使われ方をされているのには、何か理由があるのだろうか。今後、他の作品おいては一体どのような表現がされているのか、注意して観ていきたいと思う。

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