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まるで深く深く沈んでいくかのような心地よさ|中田裕二「海猫」を聴きながら

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暗いニュースに溺れそうな今日この頃、一筋の光のように素晴らしい一曲がこの世に放たれた。それはまるで睫毛を揺らす潮風のようで、名残惜しい夕暮れのようだった——それが中田裕二の新曲、「海猫」だ。


中田裕二というアーティストの名はすでに多くの人に知られているが、それでもまだ足りない、まだ足りない、と私は日々思っている。2011年の1月11日、「最後の最後まで現在進行形のバンドでいたかった」という思いと共に、突然の解散を迎えた椿屋四重奏。そのフロントマンを務めていたのが、彼だった。

椿屋四重奏は、それはもうすごいバンドだった。「すごい」なんて言葉で形容するのは、書き手としてあまりにも杜撰な仕事であるが、それはもうすごかったのだ。椿屋四重奏について語れば、おそらく5、6回は夜が明けてしまいそうなのでこの辺りで遠慮しておくが、ロックン・ロールというカテゴリーに属しながらも、「椿屋四重奏」というジャンルを新たに打ち立てたような、邦楽ロック界に深く爪痕を残した存在だったのである。

それは中田裕二がソロとなってからも変わらず、彼は今もなお「中田裕二」という新たなジャンルを築きつつあるように思う。蕩けるようなAORサウンドを聴かせてくれたかと思えば、微睡むようなジャジーな音色に酔わせてくれる。気を許していると無骨で純真なストレートを投げ込まれたり、熱く燃えるような視線を感じたりする一方で、ミラーボールの輝きに目が眩み、渇いた都会のため息がふと耳に入る。どれが中田裕二なのかと問われれば、どれもが中田裕二である。すべて含めて、「中田裕二」というジャンルのように思える。何かのジャンルで一括りにできるような範疇に、彼はいない。

話を中田裕二の新曲「海猫」に戻そう。私がこの曲をはじめて聴いたのは、去年の9月に開催された「中田裕二 trio saloon TOUR 19 “minimal dandyism 3” at Billboard Live TOKYO」においてだが、私は今もなお「海猫」をはじめて聴いた時のあの感覚を忘れることができない。それはちょうど、少し調子に乗って頼んでしまったスパークリングワインが、ぐるりと身体中を回った頃だった。

音楽を聴いていると、その音楽から連想される情景が目の前に広がるような瞬間が稀にあるが、「海猫」はそれすらも超えていく。私はすでにその曲の中にいて、音に包まれていた。音の一つひとつが、中田裕二の伸びゆく歌声が、心の奥底に隠れていたささくれを撫でる。小さじ一杯程度の痛みに少し戸惑いながらも、私は深く深く音に沈んでいき、次第に癒されていた。音に沈んでいくその瞬間には例えようもない心地よさがあり、パフォーマンスが終わったその瞬間から、私はリリースを待ちわびていたのである。

「またやってくれたなぁ、中田裕二」と新たな作品がリリースされる度に思っているような気がするが、今回も例のごとくしてやられたのだ。解禁となった3月18日の0時から、もう何度繰り返し聴いたか分からない。あの日、あの瞬間に味わった沈みゆくような心地よさは間違いではなかった。今もまた私は、あの心地よさに酔いしれている。

「海猫」が収録されているニュー・アルバム『DOUBLE STANDARD』は、4月15日(水)にリリース予定。約一ヶ月後、また「してやられた」と思っていそうだなと少し悔しく思いながらも、楽しみに待っている私がいる。どうかこの悔しさが永遠に続いてほしいと、密かに願いながら。

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